2016年01月04日

乞食坊主

私の目下のお気に入りのアプリは新聞各紙のコラム・社説を読み比べられるというもの。
各社、元旦にはどんなコラムを寄せているのだろうと読んでみたら、一番面白かったのが毎日新聞「余禄」。
それは、乞食坊主に対する芭蕉の価値観について語られていました。


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十数年前、私はヤンゴン(ミャンマー)の寺院を訪ねたことがあるのです。
剃髪をして訪問したので、「現地の修行僧とまるで見分けが付かない」なんてホストのユニセフ職員に笑われました。
修行僧の少年たちは皆、礼儀正しく、勤勉なので驚きました。
日本にも興味を持っていて、日本のいろいろな話しで盛り上がり楽しい時間を過ごしました。
彼等は徴兵制ならぬ“徴僧制”で修業をしており、すべての若者が成人する前に仏に仕えることで仏教の精神を学ぶのだそうです。
私達はご先祖様を仏として敬いますが、東南アジアの国々では仏陀を敬うのがほとんど。
ミャンマーもお墓はみすぼらしいのに、パゴタ(仏塔)はみんなが貼る金箔で輝いていました。
さて、そんなミャンマーの寺院からいただいたのが托鉢僧を象った木像でした。

帰国後、日本のとある住職に見せたところ、「乞食坊主の像かあ」と何となく小馬鹿にした感じ……。
そこで思い出したのが芭蕉の句。

薦(こも)を着て誰人います花の春

乞食坊主の木像をちょっと蔑んだ目で見たこの住職は、きっと芭蕉のこの句を知らないのだろうなあ。
見た目で物事を判断する坊さんなのかなあ。
なんとなく住職の浅い価値観が垣間見えてしまってすごく悲しい気分になったものです。


この句は―――
お正月を迎えて賑やかに華やいでいる街で、ボロのムシロを被った乞食(こつじき)を見たが、あれはもしかしたら高徳の聖人なのではないだろうか―――
おおよそこんな意味です。
当時はこの句が新春詠の巻頭に詠まれ、都の俳人達は「乞食の句が最初なんて不適切だ」とバッシングが起きたそうです。
それを芭蕉は大変嘆いたといわれています。
芭蕉が見た乞食は、もしかしたら私がいただいてきた木像のような身なりだったのかなあなんて思います。


元旦の毎日新聞のコラムが、まさに、この芭蕉の句が題材になっていたのです!
そこで、図らずもミャンマーのことを思い出したという次第!!

そのコラムの引用、、、
「西行作説話集に出てくる高徳の乞食(こつじき)僧に心を寄せていた芭蕉。
芭蕉自身も“こもかぶるべき心がけ”で俳句に臨んでいたという。
富や力が支配する世を捨て去り、目に見えない高みを目指す生き方は芭蕉の求めるところであったのだろう。」

「グローバル経済がむしろ人々の間に心の壁を作り出し、歯止めなき暴力が吹き出る今日の世界である。
文化を異にする人々が共に生きる制度や理念が崩れていく不安の中で新年を迎えた。
異質な他者への嫌悪が幅をきかせ、貧者や虐げられた人への共感もやせ細っていくようにみえるのは杞憂だろうか。
芭蕉の見た乞食は新春をもたらした年神の化身かもしれない。」


憎むべきはISなのに、イスラム教徒すべてを敵視する風潮。
あるいは、ヘイトスピーチによる特定の人々への罵詈雑言攻撃。
ネットでは極端なナショナリズムが投稿され、実際に過激な表現にアクセス数も多いと聞きます。
私たちは、見た目や、文化や考え方の違いによって、他者を排除していないだろうか。
心に壁を作っていないだろうか。



ミャンマーの思い出に浸りながら、
『“思いやり”を常に忘れずにいよう!』
新春に誓う私なのでした……



posted by るしあん at 06:00| Comment(0) | 日記