10年近く前に『謝罪の王様』という映画がありました。
宮藤官九郎の脚本で、阿部サダヲ主演のコメディーだから面白くないわけがなく、涙を流しながら大笑いしました。
DVDを見たサラもツボに入ったらしく、保育園から帰ってくると、「ワキゲボーボー、ジユウノメガミ」などと叫びながら犬と追いかけっこをしていました (^O^)

映画は、「土下座の向こう側」という究極の謝罪を探すドタバタでしたが、根底には「日本の独特の“謝罪文化”」がありました。
それは、欧米では金銭的な償いが重視されるが、日本では“まず謝罪の言葉が何より大事だ”ということなのです。
ところが、昨今の調査によると、相手が言葉だけで謝るより、何らかの自己犠牲、いわゆるコストを払った方が、欧米アジアいずれの国でも許されやすかったそうです。
例えば、「他の予定をキャンセルして謝りに来た」という方が「まず謝りに来た」というより一定のコストを払っている分、許されやすいということです。
一定のコスト=(イコール)誠意、という考え方のようです。
さらに調査では、特にコストの有無を重視する国民を調べているのですが、、、
コストを最も重視したのは欧米の国々(案の定というべきか)で、次はなんと日本だったのです。私はすごく意外に感じました。
そして、最も気にしなかったのはインドネシアだったそうです。
この結果を見ると、「(コストではない真の意味での)誠意をもって謝罪すれば許してもらえる」という映画『謝罪の王様』が成り立たなくなってしまいそう、、、
そういえば、チンピラの「誠意を見せろや」という脅し文句は、誠意=金銭とみなされて、ちゃんと恐喝罪が成立しますもんね。
「誠意」という言葉があまりに曖昧なものを指しているので、謝罪がより難しいものになっているようです。
では、日本独特の“謝罪文化”が変容した原因はどこにあるのでしょう!?
それは政治情勢を見れば明らか。
政治家も官僚もうわべだけの謝罪でごまかそうとします。
言葉や態度に“誠意”が見られないから、“うわべだけ・言葉だけ”ということが国民に見透かされてしまいます。
民間企業なら不祥事が起きたらトップが責任を取って辞任します。
かたや政治家は「大臣という責務を全うすることでお詫びしたい」などと屁理屈こいて地位にしがみつこうとします。
こんな姿を見せつけられたら、我々国民は否が応でも“辞任=コスト=誠意”というように考えるようになってしまいます。
ちょうど1年前の今頃、失言を謝罪の言葉だけで誤魔化そうとした森氏が世間の批判を浴びて五輪組織委員会の会長職を辞任するハメになりました。
なんか、もう遠い昔の出来事だったようにさえ思えます。
コストも誠意も無い政治家の謝罪の背景には、、、
・有権者は何をしても許す
・選挙の頃には忘れている
・目の前の瑣末(さまつ)なヘマなんて長期的な関係性には影響しない
こんな為政者の経験値があるからでしょう。
欧米の2大政党ならば、政治の失策には次回選挙はライバル政党に投票してペナルティーを払わせる文化が存在しますが、日本では、、、
残念ながら、お灸を据えたくたって投票したい野党がない、、、
こうしてみると、謝罪はつくづく難しいものですね。
私は誠意とは“潔さ”だと思うのですが、、、
そういえば、昔、サラリーマン時代のこと。
納期が遅れた東京の印刷会社が謝りに来た時、黒地に金の虎の紙袋のお菓子を提げてたのにはクスッとしてしまいました。
心の中で、「東京の人って、本当に、謝罪にはとらやの羊羹を持ってくるんだあ」とおかしくて、、、
先方が一生懸命謝ってくれるのだけど、「契約額がもっと大きかったら千疋屋の果物だったのかなあ」なんて変な妄想が湧いてきて謝罪の言葉がまったく耳に入ってこなかった……
言い訳せず潔く東京から飛んで来てくれただけで充分なのに。
手土産なんていらないのに。
いらんことするから、こっちは目の前の会話に集中できなくなってしまった、、、

ところで、、、
ウィル・スミスの奥さんの容姿を茶化した例のMC。
まずはおめえが奥さんに詫びた方がいいんじゃね ヾ(・∀・;)オイオイ
ワイドショーでは知識人ぶった奴がしたり顔で「暴力は許せない」なんてウィル・スミスを批判してるけど、私は家族を守ろうとしたウィル・スミスは格好いいと思うし、支持しますよ!!
それより何より、プーチンさん。
謝罪なんて後でいいからさ、まずは一刻も早くウクライナから出ていきなよ <(`^´)/