私達が和太鼓の公演でシリアを訪れた時はパパ・アサドの時代。
軍を掌握している大統領の権力は強大で、いわゆる強権政治下にありましたが、市民生活は穏やかでした。
国境付近ではイスラエル軍との衝突は頻繁に起きていましたが、一応、平和は保たれていましたので、今にして思えばシリアがも最も安定していた時期だったのかもしれません。
私達は日本大使館が主催する文化紹介事業の一環として招聘されダマスカスで公演を行ったのです。
会場となったアゼム宮殿にはたくさんの市民の方々が来てくれ、子どもたちはステージに上がり私達の指導で楽しそうに一緒に演奏をしてくれました。

私達を支えてくれたスタッフは大使館の職員さんの他に、大使館が雇ってくれた現地の方々でした。
その中でも特に和太鼓を運んでくれたクルド人の方々には大変お世話になりました。
宮殿内の狭い通路はトラックが入れないので重い桶胴太鼓を担いで搬入しなければならず、それを嫌な顔ひとつせずテキパキと運んでくれたのです。
「こんなの軽いよ!」なんて冗談を飛ばす笑顔が人懐こいのです。
最初は正直、屈強なヒゲ面にちょっとビビったのですが、話しをしてみるとみんなとてもフレンドリーでいい人達ばかり。
リハーサルの最中もセッティングの位置確認をしながら演奏を真剣に聞いてくれ、「エキサイティング!」「ビューティフル!」を連発してくれました。
リーダーのマルハバさんとはすっかり仲良くなって、私たちはみんな、彼のことを「マルちゃん」と呼んで頼りにしていたのです。



公演から数年が経ち、パパが亡くなり息子アサド(バシャール・アサド)になったとたん政情は不安定化して内戦へと突き進んだのです。
ISはシリアの弱体化に乗じ勢力を拡大し、シリア北部・イラク北西部を占領して勝手に自治政府を開きました。
アサド親衛隊を含むシリア国軍と、反政府軍、そしてISが入り乱れて泥沼の戦争となったのです。
この戦時下に紛れて息子アサドはシリア北部のクルド人の居住区に化学兵器を使用し、罪のないクルドの一般人をサリンで虐殺したのです。
その後も化学兵器禁止機関(OPCW)や国連を無視し続け、首都ダマスカスにおいても化学兵器を使用しました。
大使館職員は命が脅(おびや)かされる事態となり、日本や諸外国はヨルダンなどの近隣諸国に退避し、大使館機能を移したのです。

虐殺を逃れたクルド人の多くはトルコに越境して避難したのですが、非情にもトルコのエルドアン大統領はクルド難民を排斥したのです。
一部はトルコに残り、また一部はISが衰退した後シリア北部に戻り、そしてまた一部は諸外国へと逃げざるを得ない、、、そんな悲劇を生んだのです。
残念ながらマルちゃんや仲間のみんなの消息は全く分かりません。
生きているのかも、殺されてしまったのかも、知る術は無いのです。
ただただ生きていてほしいと願うだけです。
そんな私ですが、昨日の新聞記事は胸を締め付けられるようでした。
それは、、、日本の某県でクルド人の排斥運動が起きていることを伝えていました。
度を超す活動はもはや「ヘイトスピーチ」となっており「レイシズム(人種差別主義)」も起きかねないそうです。
しかも、自民党の某国会議員センセイがSNSでヘイトを煽っているのだとか。
どうしてこのような事態に陥ったのか背景がまったくわかりませんが、感情的にぶつかり合うのではなく、一度冷静になって相互理解を少しでいいから進めてほしいと願います。

1枚目の写真の笑顔で太鼓を叩く子どもも、下の化学兵器(毒ガス)の犠牲になった子どもも、同じ国の子どもたちなのです。
わずか数年の出来事、、、わずか数年でこの笑顔が毒ガス治療の酸素マスクに覆われたのです。
戦争は子どもの笑顔を奪い、そして命さえも奪うのです―――
たとえ大統領であろうと、一介の国会議員であろうと、何びとにも子どもの笑顔を奪っていい道理はないのです。