2024年06月29日

かみなりのはなし(こっちが本題)


6月26日は「雷の日」(雷記念日)でした。
ずいぶん中途半端な日付に「?」。
語呂も合わないし、6月じゃ雷のピークでもないし、軽トラのナビにウソをつかれたかと思って、由来を調べてみました。


その起源は平安時代にまで遡(さかのぼ)ります。
時は延長8年(西暦930年)6月26日、平安京内裏にある清涼殿に落ちた雷に由来して、この日が「雷の日」になりました。
この日、日照り続きに雨乞いの祈祷を行うかで、公卿たちが内裏に集まり会議をしていました。
そこに、夕方から急に黒雲が立ちこめて、あっという間に清涼殿に雷が落ちたのです。
史実によると第一柱に落雷。柱周辺にいた公卿や官人が巻き込まれました。
大納言民部卿の藤原清貫(ふじわらのきよつら)が衣服に引火した炎で胸を焼かれて即死。
右中弁内蔵頭の平希世は顔を焼かれて瀕死の重体に。
火は紫宸殿にも燃え広がり、髪を焼かれる者、腹を焼かれる者、多数の重症者で阿鼻叫喚の様相になりました。
醍醐天皇は常寧殿に遷座し無事でしたが、惨状を目の当たりにして体調を崩してしまい、その3カ月後に崩御することとなるのです。

実はこの藤原清貫は、菅原道真(すがわらのみちざね)の大宰府左遷に関わっていたのです。
清貫は左遷後も藤原時平に命じ道真の動向をスパイさせていました。
そこで、巷では、都に帰れないまま大宰府で没した道真の怨霊によるたたりで雷が落ちたと噂が広まったのです。

そして、この一件が、道真の怨霊が雷神となり雷を操ったとの伝説となって後世に語り継がれていくこととなるのです。

朝廷では、道真の霊を鎮めるための祈祷を行い、天暦元年(947年)平安京天門に神社を建立しました。
それが京都「北野天満宮」です。
こうして、道真は雷の神「天神」として祀られるようになったのです。
また、博学であった道真は「学問の神様」としてあがめられていますので、現在は「天神様=学問の神様」と認識されていますが、天神様とは本来、雷の神様なのです。



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ちなみに、うちのばあさまが落雷避けに唱えていた呪文「くわばら、くわばら」は、道真の領地の「桑原」には一度も雷が落ちなかったことに由来しています。
私が幼少の頃は「くわばら、くわばら」はよく聞きましたが、女房は聞いたことがなかったそう。年齢はそんなに違わないのに、、、
私が育った旧駒寄村の方が利根川沿いにあり、女房の旧明治村より落雷が多かったからなのか?


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そうそう、雷さまを祀る神社といえば、群馬では雷電神社が有名ですが、、、
雷電神社に祀られているのは「大雷大神(おおいかづちのおおかみ)」「別雷之大神(わけいかづちのおおかみ)」「火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)」という神様。
菅原道真公とは全く関係ありません。
板倉の雷電神社の歴史は古く、聖徳太子が天の声を聞き、推古6年(598年)に祠(ほこら)を設けて天の神を祀ったのが始まりと云われています。
つまり、雷電神社は北野天満宮より“350年”も古く歴史があるのです。

利根川流域にはたくさんの雷電神社があり、板倉は関東一円の総本宮に位置付けられています。
太古の昔から、ここ群馬県は雷と縁が深かったことの証明でもあります。



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1,500年も前から、私たちのご先祖さまが雷にビビっていたかと思うと、なんだかご先祖さまをとても身近に感じられます。


これも“歴史ロマン”ですよね (^^*)v






※平安時代はと〜っても長い……
 『光る君へ』は西暦1000年頃のお話し。
 視聴率は芳しくないようですが、私は毎回、とても楽しみに見ています。
 マツジュン家康よりずっと面白い ( ^^) _U~~













posted by るしあん at 18:53| Comment(0) | 日記

2024年06月28日

かみなりのはなし


私の愛車軽トラのナビは朝の始動の際、ご丁寧に「今日は○○の日です」と教えてくれます。
一昨日(6月26日)は「雷の日」だそうで、、、

そういえば、最近、めっきり夕立が少なくなりましたね。
線状降水帯によるスコールが頻発して、日本はもはや熱帯気候のようです。
私が幼少の頃は30℃を超えれば猛暑で、高くても32℃くらい。
毎日のように夕立でしたので、雨後は涼しく、夜は戸を開けて蚊帳を張れば扇風機が無くても快適に床に就くことができました。



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我が家は貧乏百姓でしたのでボイラーなど無く、台所にガス瞬間湯沸かし器がありお湯はもっぱら調理用。
髪を洗う時は、洗面器で湯船の湯を汲んでバシャー、、、
テレビなどで見るシャワーは金持ちの象徴のように思えたものです。
だから、夕立になると嬉しくて、、、
豪雨がやってくると、「わ〜い、シャワーだあ」と頭に石鹸を付けて庭に飛び出しました。
どんなに光っていても雷鳴が轟いていても全く怖さは感じなかったなあ。

そのせいか、今でも雷がなるとウキウキしてきます。
おかげで、女房やサラ・ミラからは“変人”扱いされていますが (=_=)



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私と反対に祖母は大の雷嫌いで、、、
大昔、祖母が嫁に来てすぐの頃、となりの田んぼのおばあさんが雷に打たれて亡くなるという一件があって、異常なくらい恐れていました。
桑切りに出ても遠くで雷鳴が聞こえるとすぐに逃げ帰ってくるのです。
大声で「くわばら、くわばら」と呪文を唱えながら家に飛び込んでくるので、「おっ、もうすぐ夕立雨が来るな」って知ることができました。

私が服を脱ごうとすると、
「馬鹿め〜! 死んじまうゾォォ!」
ばあさまの怒声が響き渡るのです。



もう、60年近くも昔の話しです (^o^)




今日は「雷の日」にちなんで、その制定の由来と、“くわばら”についてブログに書くつもりだったのに、半世紀も前に亡くなったばあさまの思い出話しになってしまった、、、













posted by るしあん at 19:11| Comment(0) | 日記

2024年06月27日

ヘリテージ


先日の地元紙の調査によると、県内小中学校で富岡製糸場や関連施設を校外学習先に選定しているのは3割強なのだそうです。
さすがに地元の西毛地域では9割以上が訪れているようですが、せっかく身近に世界遺産があるのにもったいない、、、
サラ・ミラは小学校4年生で行っているのですが、想像を越える巨大な建物が150年も前に建てられたことに素直に驚いていました。
そして、その工場から、お蚕の繭から作った生糸が世界各地へ輸出されていたことも驚きだったようで、日本の最先端技術が自分達の住む群馬にあったことを誇らしく感じているようでした。



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明治政府から工場設立を任されたポール・ブリュナは、港・横浜から遠くなく養蚕が盛んな武州(埼玉)・上州(群馬)・信州(長野)を視察に訪れたそうです。
そんな中、ブリュナは、富岡周辺の美しい山並みに故郷ブール・ド・ペアージュの風景を重ね、この地を選んだと言われています。
飛行機のない時代、船で何カ月もかかる遠い遠い異国の地で、郷愁の想いがあったことは想像に難くありません。

明治3〜5年といえば、まだまだ江戸時代の名残りが色濃く残っていたんだろうなあ。
ちょんまげで褌(ふんどし)姿の田舎もんを見た時、ブリュナはどう思ったのだろう!?

近代日本の工業化が、まさにこの地から始まったと思うと歴史ロマンを感じます。



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四半世紀近く前、小寺知事(当時)が最初に「富岡製糸場を世界遺産にする」とブチ上げた時、私はちょうど富岡の営業所に勤務していました。
客先回りで毎日のように富岡製糸場の前を通っていたのですが、恥ずかしながら「いや、さすがに、世界遺産は無理だろう」と過小評価をしていました。
ほとんどの県民が半信半疑の中、市民のみなさんは市を挙げて、職場や商店街でPRや署名活動などなど頑張っていらっしゃいました。
世界遺産に決まった時は、私も心から嬉しかったなあ。
すでに私は脱サラで退職していましたが、富岡支店に勤務していた数年間を懐かしく思い出しました。



世界遺産となって、もう丸10年も経つのかあ、、、

昨秋は九州の孫を連れて、自然史博物館でポケモン化石展を見て、こんにゃくパークに行ったのですが、それが十数年ぶりの富岡訪問でした。
もう少し経って、孫たちが小学校高学年になったら富岡製糸場に連れて行ってあげようと思っています。

“上毛かるた”も教えて、九州の孫にも群馬人のDNAを刻まねば (^^ )/











posted by るしあん at 20:15| Comment(0) | 日記