6月26日は「雷の日」(雷記念日)でした。
ずいぶん中途半端な日付に「?」。
語呂も合わないし、6月じゃ雷のピークでもないし、軽トラのナビにウソをつかれたかと思って、由来を調べてみました。
その起源は平安時代にまで遡(さかのぼ)ります。
時は延長8年(西暦930年)6月26日、平安京内裏にある清涼殿に落ちた雷に由来して、この日が「雷の日」になりました。
この日、日照り続きに雨乞いの祈祷を行うかで、公卿たちが内裏に集まり会議をしていました。
そこに、夕方から急に黒雲が立ちこめて、あっという間に清涼殿に雷が落ちたのです。
史実によると第一柱に落雷。柱周辺にいた公卿や官人が巻き込まれました。
大納言民部卿の藤原清貫(ふじわらのきよつら)が衣服に引火した炎で胸を焼かれて即死。
右中弁内蔵頭の平希世は顔を焼かれて瀕死の重体に。
火は紫宸殿にも燃え広がり、髪を焼かれる者、腹を焼かれる者、多数の重症者で阿鼻叫喚の様相になりました。
醍醐天皇は常寧殿に遷座し無事でしたが、惨状を目の当たりにして体調を崩してしまい、その3カ月後に崩御することとなるのです。
実はこの藤原清貫は、菅原道真(すがわらのみちざね)の大宰府左遷に関わっていたのです。
清貫は左遷後も藤原時平に命じ道真の動向をスパイさせていました。
そこで、巷では、都に帰れないまま大宰府で没した道真の怨霊によるたたりで雷が落ちたと噂が広まったのです。
そして、この一件が、道真の怨霊が雷神となり雷を操ったとの伝説となって後世に語り継がれていくこととなるのです。
朝廷では、道真の霊を鎮めるための祈祷を行い、天暦元年(947年)平安京天門に神社を建立しました。
それが京都「北野天満宮」です。
こうして、道真は雷の神「天神」として祀られるようになったのです。
また、博学であった道真は「学問の神様」としてあがめられていますので、現在は「天神様=学問の神様」と認識されていますが、天神様とは本来、雷の神様なのです。

ちなみに、うちのばあさまが落雷避けに唱えていた呪文「くわばら、くわばら」は、道真の領地の「桑原」には一度も雷が落ちなかったことに由来しています。
私が幼少の頃は「くわばら、くわばら」はよく聞きましたが、女房は聞いたことがなかったそう。年齢はそんなに違わないのに、、、
私が育った旧駒寄村の方が利根川沿いにあり、女房の旧明治村より落雷が多かったからなのか?

そうそう、雷さまを祀る神社といえば、群馬では雷電神社が有名ですが、、、
雷電神社に祀られているのは「大雷大神(おおいかづちのおおかみ)」「別雷之大神(わけいかづちのおおかみ)」「火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)」という神様。
菅原道真公とは全く関係ありません。
板倉の雷電神社の歴史は古く、聖徳太子が天の声を聞き、推古6年(598年)に祠(ほこら)を設けて天の神を祀ったのが始まりと云われています。
つまり、雷電神社は北野天満宮より“350年”も古く歴史があるのです。
利根川流域にはたくさんの雷電神社があり、板倉は関東一円の総本宮に位置付けられています。
太古の昔から、ここ群馬県は雷と縁が深かったことの証明でもあります。

1,500年も前から、私たちのご先祖さまが雷にビビっていたかと思うと、なんだかご先祖さまをとても身近に感じられます。
これも“歴史ロマン”ですよね (^^*)v
※平安時代はと〜っても長い……
『光る君へ』は西暦1000年頃のお話し。
視聴率は芳しくないようですが、私は毎回、とても楽しみに見ています。
マツジュン家康よりずっと面白い ( ^^) _U~~