この3年、新型コロナ禍においては、ワクチンや治療薬の面で先進国の後塵を拝した日本科学界でしたが、要因は科学者ではなく有事の際の対策準備を怠ってきた政治にあるようです。
自由な研究を求めて優秀な頭脳が渡米してしまうのは、なんとも残念な話しです。
さて、今宵はワクチンの話しで書き進めようかと思います。
最後までお付き合い願えれば嬉しいかぎりでございます !(^^)!

ペスト菌の発見者には2人の名前が刻まれています。
北里柴三郎とアレクサンドル・エルサンです。
とは言っても共同研究によって一緒に発見したという訳ではありません。
北里は熊本生まれで、ドイツ・コッホ研究所出身。
エルサンはスイス生まれのフランス人で、フランス・パスツール研究所出身。
いわば、ライバル関係なのです。
1894年、香港でペストが流行した際に、2人は相次いで現地に入ります。
発見は北里の方が早かったのですが、確認に時間がかかってしまいました。
その間にエルサンが先に確認を終えてしまったのです。
結局、ペスト菌の学名にはエルサンの名前が付くことに、、、
学名「KITASATO」は幻とついえたのです。
2人の競争は、いわばコッホとパスツールという、同時代を生きた「近代細菌学の開祖」と呼ばれた独仏ライバルの“代理戦争”でもあるのです。
「“戦争”なんて大げさな」なんて思うかもしれませんが、ちょうどそんな独仏が対立する時代の話しなのです。
普仏戦争(1870〜71年)でプロイセン(現ドイツ)がフランスを破り、皇帝ナポレオン3世を捕虜としました。
統一ドイツが誕生し、ヨーロッパではドイツの影響力が増していきました。
1876年、コッホは炭疸病の原因菌を特定しました。
そして、その5年後にパスツールはそのワクチンを開発します。
称賛を受けるパスツールは、この時、原因菌を発見したコッホの業績には全く触れませんでした。
このことにコッホは激怒したといいます。
この「開祖」の2人、互いに互いを意識していたというレベルではなく、もはやライバルを超えて憎しみさえ抱いていたようです。
パスツールはこう話しています。
「科学に国境は無いが、科学者には祖国があるのだ。」
コッホは結核菌やコレラ菌を発見する一方、パスツールはワクチンで予防接種法を確立。
1885年、パスツールは狂犬病の犬に咬まれたジョセフ・マイスター少年をワクチンで救ったことで、その名は一気に高まるのです。

こうしてみると、コッホとパスツール、北里とエルサン、彼らの競争も両国勢力争いの延長線上で捉えることもできるようです。
この3年、新型コロナ感染症に対するワクチン開発に関して、各国の研究機関が競ってきました。
競争のおかげで、新型コロナワクチンの早期開発に結びつくことができました。
ただ、この国際競争の中に日本がいなかったことは残念でなりません。
国際競争によるワクチンの早期開発は素晴らしいことだと思いますが、反面、医療物資の輸出規制などがあったことも事実で、治療薬やワクチンでの「国家間対立」は回避しなければならない問題です。
最後に、狂犬病から命を救われたジョセフ・マイスター少年の話しを紹介します。
19世紀の独仏対立はその後、第一次、第二次大戦へとつながります。
パリに侵攻したナチス・ドイツは1940年6月、パスツール研究所を接収します。
職員は懸命に研究所を守ろうとしたそうです。
しかし、その時、まさにナチス・ドイツが研究所を奪った時に、一人の初老の守衛が自ら命を絶ったのです。
その守衛こそが、ワクチンで救われたあのジョセフ・マイスターだったのです。
実は、パスツール研究所には、パスツールの功績を称え彼のお墓があったのです。
マイスターは、第一次大戦の後の1918年以来、命の恩人であるパスツールの墓を守衛として守り続けていたのです。
ジョセフ・マイスターの死は、まさに“ワクチンが救った命を、国家の対立が奪った”、そんな悲劇だったのです。
新型コロナ禍は3年を経て、ようやく収束の光が見えてきました。
この3年間は、いわば“国際協調が試された3年間”でもありました。
しかし、残念ながら世界を見渡せば、、、
ロシアのウクライナ侵攻、ミサイルによる無差別攻撃。
それに伴う支援国家間のパワーゲーム。
エネルギーのグローバルネットワークの崩壊。
中国の力による海洋進出、北朝鮮の核武装化。
日本の防衛のための敵基地攻撃可能化、膨張する防衛費。
国際協調どころの話しではなく、この3年間で、大国のエゴ丸出しの緊張状態になってしまいました。
ジョセフ・マイスターは草場の影できっと嘆いていることでしょう、、、
あれから、80年、人間は何も学んでいない……、と。