地元の町議さんが力を入れているのが、吉岡町内の河川にあるデ・レーケ堤の保存と周知活動です。
町内を流れる川はほとんどが、榛名山麓に降った雨が伊香保、榛東から吉岡を通り利根川に流れ込みます。
榛名山東麓ひとつ見ても利根川の流域面積が日本一なのもうなずけます。
急峻な川も今は護岸工事や砂防堤によって氾濫や決壊もなく町民は安心して過ごせています。
これも先人たちが氾濫と戦い暴れる川を鎮めてくれたおかげです。
その歴史の1ページを刻むのがデ・レーケ堤なのです。

明治時代、河川改修や砂防に貢献したオランダ人技師のヨハニス・デ・レーケは日本の川の急勾配に驚いたそうです。
対策の主眼は、激しい流れにどう対処するかでした。
越流や堤防決壊で生じる「外水氾濫」を防ぐために、濁流の荒々しさを抑えることに苦心したようです。
榛名山麓に見られる砂防堰堤群は、デ・レーケの指導を受けた内務省の宇佐美房耀、米倉直司の2人の技師が中心となって作られたものです。
巨石を使って石堰堤が整備されました。
それらは、今も氾濫を防いでくれているのですから、デ・レーケ堤がいかに優れているかが伺い知れます。
一部は土砂に埋もれてしまっていて、人の手によって急峻な勾配が改善されているとわからない場所もあります。
そこで、有志の方々が集まり「デ・レーケ堰堤クリーン作戦2019」を展開し、吉岡町を流れる自害川の自害沢9号堰堤の発掘や他号堰堤の清掃等を行いました。
この年を初回として毎年続けられる予定でしたが、運悪く翌年から新型コロナ感染症のパンデミックが始まりクリーン作戦は中止を余儀なくされているのです。
私は発掘の年、狭窄症の手術を受けてリハビリ中でしたので、翌年のコロナの自粛期間中に杖を突きながら見学してきました。
足が思うように動かないので川まで降りることはできませんでしたが、岸の上から見ても大きな石が緻密に組み上げられた様子がわかりました。

明治・大正・昭和を生きた私の祖父は農業の傍ら利根川で石を運び出す職人だったそうで、遺影でしか知らない祖父の姿に思いを馳せながらデ・レーケ堤を眺めていました。
この堰堤の石のひとつひとつに祖父の大先輩たちの職人の思いが込められているんだろうなあなんて思うと、時代を超える物つくりの素晴らしさを実感できます。
後世に受け継いでいくために“保存”という努力は今を生きる世代の義務なのかもしれませんね。
ところで、、、
我が家の墓地には先祖代々の他にいくつも小さな墓石が並んでいます。
私の家は本家筋ではなく祖父が分家したので、いわば私が三代目なのに、なんで我が家にはこんなに墓石が多いのだろうと不思議でした。
幼少期に聞いた話しでは、石運びの職人の中には新潟、東北などの雪国からの出稼ぎの人やサンカと呼ばれるジプシーのような人も多く、故郷に帰れぬまま病死してしまう方がいたそうです。
仲間を無縁仏にするのは忍びないと、祖父が近所の住職に戒名を付けてもらって墓標を建てて供養したそうで、その墓石が並んでいるのだとか。
デ・レーケ堤を眺めながら父親から聞いたそんな話しをふと思い出しました。
本家の伯父貴はとうに鬼籍に入り、父は認知症でもはや満足な会話もできません。
もう少し若いうちに我が家の歴史を聞いておけばよかったと今になって悔やんでいます。
そういえばよく父が冗談まじりに話してくれたのが、祖父の友人の話し。
職人仲間で特に仲のよかったSさんという友人が「これからはこんな非効率な石運びをやっている時代じゃなくなる。俺と一緒に土木専門の会社を作るべえ」と誘ってくれたそうです。
農業が本業だった祖父はその申し出を断ったそうなのですが、Sさんは努力の末、なんと一代で群馬県一の土木会社を作りあげたのです。
Sさんの孫は国会議員となり引退した今は経営に専念して、「S建設」は現在も群馬の土木建築をけん引しています。
父いわく、我が家が気が小さいのは先祖代々だそうで、、、(*^^)v
あの時、じいさんが友人の誘いに乗って新しい事にチャレンジしていたら今頃どうなっていたんだろうなあ!?
私が度胸も商才もないのはじいさん譲りなのかもしれないなあ (=_=)
孫たちに、いつか、デ・レーケ堰堤を見せに連れて行こう。
そして、いつか、私が伝え聞いた祖父の話しを教えてあげよう。
歴史とは石を組むようにひとつずつ積み上げられていくのでしょうね―――