先週は、亡父の七七法要、納骨を無事執り行いました。
あっという間に1カ月超が過ぎましたが、雑務に追われて悲しんでいる暇が無いという有様でした。
さすがに位牌上げが済むと、遺骨や祭壇の無くなった和室が妙に広く感じて、急に物寂しさに襲われてしまうこともしばしば。
この先、相続手続などが終わり遺品整理を始めると、心からの悲しみや後悔、そして感謝など複雑な気持ちになるのでしょうね。
人は家族に見守られて静かに、穏やかに浄土に旅立つことができることが何より幸せなのだそうです。
病院や施設において「看取り」を重視するところが増えてきていますが、大切な家族をどこに預けるかの選択肢の一つに考えた方がいいかもしれません。
今、「さようならの無い別れ」と「別れのないさようなら」が増えているそうです。
前者は、事故などで突然亡くなったり、あるいは感染症による病死のため面会謝絶のままお亡くなりになるケースなど。
「さようなら」を言えずに死という「別れ」を迎えます。
後者は、認知症などにより自身の事が全く判らなくなってしまうケース。
確かにそこに生きているのに、記憶や自分自身も失って、もはやその人ではなくなっています。
死別していなくても、すでに「さようなら」をしているのです。
アルツハイマーを患って認知能力が無くなってしまった父でしたが、最後に病室を訪ねた時は、話しかけるサラ・ミラを目で追って柔らかい表情をしていました。
私が「じいさん、わかる?」と顔を近づけると反対に“しかめっ面”をしたので、みんなで「ひいじいちゃん、すごい。今日はみんなのことがわかるんだね」と爆笑でした。
その数時間後に息を引き取ったのですが、命の最後の炎を燃やして自分を取り戻し、みんなに「さようなら」と「別れ」を伝えたのかもしれません。
誰しもが家族を看取り、やがては自分自身の番が巡って来るのです。

テレビでは、連日、イスラエルのレバノン侵攻が伝えられています。
南部地上侵攻、首都ベイルート空爆、、、2,000人近くが命を落とし、内196人が子どもだったそうです。
私たちが和太鼓のベイルート公演を行った時のあの平和はもうそこにはありません。
演奏を観に来てくれた人々、一緒に太鼓を叩いた子どもたち、、、彼らは、すでに、イスラエルによって虐殺されてしまったのだろうか。
人の欲やエゴによって、無残に幼い命まで奪われています。
地獄のようなその場所では、殺戮兵器によって「さようなら」のない無慈悲な「別れ」が溢れています。

恐怖の無い世界で、家族に見守られて静かに、穏やかに旅立つことができる私たちはなんて幸せなんでしょう……
中東を遠い世界の事と傍観せず、自分事と考えて、“想像”してみましょう。
軍事オタクのゲル首相は“アジア版NATO”などとキナ臭い発言をしています。
戦争抑止力となるか、アジアの緊張を高めるだけになるのか、私たちは政治に無関心になってはいけません。
今こそ、戦争のない平和な日本であり続けるために何が必要なのかを一人ひとりが考えるべきなのではないでしょうか。
やがて、何びとにも平等に訪れる「別れ」の時。
しかし、別れ方は決して平等ではありません。
せめて、戦禍による別れが少しでも減りますように、、、
せめて、幼子の別れが少しでも無くなりますように、、、