かつて大手ゼネコンのテレビCMで“地図に残る仕事”を前面に押し出したものがありました。
そこに映る誇り高き職人は正にあの時代の物作りを支えてくれた人々でした。
文系の私には機械土木工学のことは寡聞でしたので、自分の関わった物を残す喜びというものがよく分かっていなかったと思います。

先日のこと、ある全国紙に渋川金井遺跡群の話題が載っており嬉しくなりました。
地域面ではなく全国版のコラムで取り上げられていて、仕込みの忙しい時間だったにも関わらず思わず読みふけってしまいました。
実は私、40年以上も遥か昔、大学時代にアルバイトで金井遺跡の製鉄所遺構と小野上村(当時)の八木沢清水遺跡の住居跡の保存の仕事をしたことがあるのです。
記事を読みながら当時のことが次々に思い出され、ホントもう懐かしくて、懐かしくて、、、
12年程前に、鎧を着たまま亡くなった人骨が発掘されたことで金井遺跡は一気に全国的に有名になりました。
精巧に鉄板をつないだ甲(よろい)を身に付けていることから高い位にあったことが解かります。
近くにうつ伏せに倒れていた女性は首飾りを付けていました。
このことは、金井遺跡の集落は渡来系の技術など高度な文化を持っていたことを表わしています。
それが、古墳時代の6世紀初頭に榛名山が噴火し火砕流が集落を襲ったのです。
瞬時に破壊され火山灰にまるごと覆われてしまった集落。
皮肉にも、非情な災害が当時の生活を伝えるタイムカプセルのような貴重な遺跡を残すことになってしまったのです。
まるでポンペイのようですよね。
発掘された出土品約1,800点が、国の重要文化財に近く指定されるのです。
「学生時代に保存に関わったあの製鉄所で甲の鉄板が作られたのだろうか」なんて想像したら武人遺骨発見のニュースに鳥肌が立ってしまいました。

さて、私はというと、アルバイトといっても教育委員会から賃金をもらう発掘要員ではなく、遺跡保存を専門とする大学教授のお手伝いだったのです。
今や「遺跡保存といえばモリヤマ」と言われる世界的第一人者。
博物館や史跡などで、縄文集落の復元や貝塚の地層断面などを見たことがある方も多いと思いますが、あれを造る仕事の助手(というより小間使い)をしていたんです。
教授の住まいは東京なので渋川市内にアパートを借りて、帰省中の私が軽トラで先生を迎えに行き、道具を積み込んで現場へ、、、帰りは日帰り温泉で汚れと疲れを落してまたアパートへ乗せて帰る。
こんな日々だったのですが、毎日がすごく楽しかったことを覚えています。
保存作業はざっくり言うとこんな感じ(でかいサロンシップを地面に貼ったら土が付いてきたイメージで読んでください)。
発掘作業が終わったあとの遺構に高分子ポリマーの液に浸した45p四方のガラスファイバー繊維のマットを並べていきます。
空気が入らないように遺構地面に貼りつけハケで空気を抜いていく作業を地道に続けます。
乾くのを待って2回、3回と何層にも塗り固めるのです。
それを剥ぐと実際の土が貼り付いているという具合。
地層の場合は剥いで補強して、四辺を綺麗にカットして、タペストリーに仕上げたり、あるいは角材を添えてでっかいキャンバスや額縁のように仕上げたりします。
遺構の場合は剥いだものを雌型(めがた、凹)にして、再度、粘着を増した高分子ポリマーを沁み込ませたガラス繊維を並べて剥がせば遺構の表面・形がそのまま移し取れるのです。
遺跡の保存は考古学の先生や文化財保護の専門家が軽石、珪藻土、砂利などを使って埋め戻し、その上に先程の凸の方をセッティングします。
これで完成。
遺跡の見学者は実際に製鉄所遺構の上に立ち、大きさなどを実感しながら手に触れることができるのです。
でも本当の遺跡は足元の地中に埋まって保存されており、人々はレプリカを体験しています。
とはいっても触っている土は本物の古墳時代のもの。

遺跡発掘では元来、「記録」が中心で、土器などを掘り出した後は、実測図を書いて写真を撮って、文章を書き起こすという「2次元的記録」に留まっていました。
しかし、モリヤマ先生は遺構そのもの、遺跡がある空間そのものを保存する重要性を説いていました。
それが「造形保存」であり最も重要な点は『原位置再生』であるということ。
「そのまま」を保存することが考古学研究において極めて有用なのだそう。
接状剥離で保存された断面は砂の一粒一粒に至るまで観察することができるのです。
観光地などでは、今ではVRで当時のお城を見るなどの疑似体験ができるようになりました。
3D技術の発展は、遺物を立体的にコピーすることも可能です。
高度な技術によって後世に映像や立体模型として残すことができるのですから実に便利になったものです。
ところが、こんなに進んだ現在でもモリヤマ先生の遺跡保存技術は多くの所から求められています。
実にアナログなやり方ですが、本物を見て触れる感動は時が過ぎても決して色褪せない魅力なのです。
先生は私の父親くらいの年齢でしたのでもう90歳くらいになったのかなあ。
金井遺跡群の記事を読んだ晩、気になって検索してみたらお元気そうで何より。
退官後に工房を立ち上げ、今でもバリバリ働いているようでした。
ネット記事にはチバニアン(地場逆転)の地層剝ぎ取りも予定しているとのこと。
いや〜、すごい!!
新聞に載る遺跡の保存作業の手伝いをさせてもらいそれが今でも貴重な資料として残っている――
40数年前には思いもしませんでしたが、実に貴重な体験をしていたんだなあ。
今になって感慨深く当時を思い出しました。
若い頃は“地図に残る仕事”の素晴らしさは解かりませんでしたが、この歳になってみると“今に残るもの”に携わる価値が少しだけ解かったような気がしています。
よく、「あの橋を造ったの俺だ」「高速道路を造ったのはわたくしでございます」などとほざいているセンセーがいますが、、、
次代に残る仕事を誇れるのは、名もなき技術者であり作業員であり汗を流した人々であるのです。
決して、浅はかな功名心の塊の議員センセーが自慢していいもんじゃありませんよ!