その昔、祖父・父の代は我が家は養蚕農家でした。
数羽のニワトリを飼い、コメと野菜は自給自足で、繭を売ったお金が現金収入。
当然、それだけじゃ食っていけず、祖父は利根川の石職人で父は村役場で電気工をしていたそうです。
今にして思えば祖母と母が中心となって百姓を営む兼業農家だったのです。
女房の実家も義父は渋川の化学工場勤めで女衆が野良仕事をしてたといいますから、当時の農村はそんな兼業世帯が多かったのでしょうね。
時は1972(昭和47)年。
戦後の貿易摩擦で、アメリカが日本にイチャモンを付けてきました。
「大国」「戦勝国」を振りかざして因縁をつけるやり方はここから始まったのかもしれません。
最初にやり玉に挙がったのは「繊維製品」でした。
確かこの時もアメリカは自国製品の品質向上や売れる商品を作る工夫をすることなく、「ルール」の方をねじ曲げようとしたのです。
右ハンドルや小型化、充電プラグを相手国に合せるなどの工夫や努力をしないくせに、「日本ではアメ車が走っていない」と文句を言い、「売れないのは相手国が悪りいんだから高けえ関税を掛けてやる」とうそぶくクソ大統領(スミマセン、書き間違えました)、トランプ大統領と構造は同じ――
今の自動車産業を取り巻く環境がこの時の繊維産業だったと思ってください。
当時、日本はアメリカに譲歩し、輸出を自主規制する「繊維協定」に調印しました。
本県桐生市は繊維製品の一大産地ですから、繊維業者は甚大な打撃を受けることとなってしまいました。
洋服生地の輸出額は調印後わずか2年足らずで半減、桐生は廃れていくのです。
我が家もそうでしたが、生糸の需要が無くなり繭を作っても二束三文。
生計が立ち行かなくなり養蚕から一斉に離れたのです。
こうして吉岡村(当時)から桑畑が消えたのです。
桑は放っておくと大木になってしまうので、百姓仲間と協力して引っこ抜いて、メリテーラーで何度も耕してようやく野菜畑に変えました。
私は小学生でしたが、正直なところ、養蚕をやめると聞いて飛び上がるほど喜びました。
オコサマ(蚕)に占領されてしまう座敷は広く使えるし、何より桑やりの手伝いから解放されるのは嬉しくて仕方ありませんでした。

では、なぜ、日本は不合理な「日米繊維協定」に調印したのか?
1972(昭和47)年と聞いてピンッと来た人はなかなか鋭い!
この年の5月15日に沖縄が日本に返還されたのです。
そう、日本は沖縄を“人質”にされて泣く泣く調印するに至ったのです。
当時、沖縄返還に喜ぶ世論の影で養蚕農家はこう泣いたのです、、、
佐藤エイサクは、「糸を売って、縄を買った」のだと、、、

さてさて、先日、日米関税交渉は第2弾を迎えました。
さすがに今回は我がセンセーはMAGAキャップを被って自分を卑下することなく交渉に臨まれたようですが、、、
日本の妥協できる輸入品目として「大豆」カードを切ったようです。
大豆農家に血を流させ、食卓から「国産丸大豆しょうゆ」が消えても構わないってことなのかなあ、、、
「豆を売って、車を買った」なんて言われないようにね!
最後に、、、
桐生ですが、当時、「業界は一時茫然と立ちすくんだ」(桐生織協四十年誌)ようです。
しかし、その後、巻き返しを懸けて、業界は一丸となって設備の近代化や製品の多様化、アメリカ以外の販路開拓に取り組んだのです。
結果、中近東でバカ売れし、内需の拡大も追い風となって、協定前より売上を伸ばすことに成功したのです。
今日の桐生の発展は「挑戦の先に道は開ける」ことの証しなのです。
トランプさんの行動は読めないし、政治は不透明ですが、スバルの城下町太田市もきっと逆境に負けることなく発展してくれると信じています。
スバル車オーナーの一人として応援しています (^^ ) /~
そして、私も百姓のはしくれ。
納豆、豆腐、味噌などは国産大豆使用の商品を買うことで大豆農家を応援しよう思います (^^ )v
